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上水記にある玉川上水絵図。上水記とは1788〜1791年にかけて普請奉行石の遠江守広通がまとめた江戸の上水に関する資料集成のこと。絵にある投渡堰や蛇籠といった水の流れを調節する装置は、今も同じ場所で役目を果たしている。 |
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江戸を潤す上水図概略(羽村市郷土博物館展示)。最下部を流れるのが玉川上水、中央が神田上水、最上部には千川上水。
玉川上水の取入水門周辺。右側の写真は大水の際に撮影。多摩川の水をせきとめて上水路に引き入れる羽村取水堰(はむらしゅすいぜき)は、昔と同じ位置にある。 |
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兄弟が目をつけたのは、暴れ川の異名を持つ多摩川。しかも、その流域は勾配の少ない武蔵野台地で、工事が難航することは容易に想像できた。しかし、江戸まわりにある小さな川と違って十分な水量があること、流れが丘陵にぶつかり対岸に向かって水があつまることから、工事を決意。羽村から江戸までを測量して十分成算があると確信した兄弟は、幕府に掘削普請を申し出でて金6千両を工事料として賜り、いよいよ着工することとなる。
計画は多摩郡羽村から多摩川の水を取り入れ、江戸市内の四谷大木戸までを開削するというもの。承応2年(1653年)4月4日に着工した工事は、同年の11月15日に完成。水は滞りなく流れ、工事開始よりわずか8ヶ月で玉川上水は誕生した。その長さは約43kmにも及んだという。こうして江戸市民の水不足は解決され、幕府を大いに満足させた兄弟は、“玉川”という名字を賜り、永年玉川上水元役を命じられた。さらに200石分の扶持と、帯刀をも許されたといわれている。
兄弟の造った上水は、東京に近代的改良水道が建設され始める明治31年(1898年)12月まで、江戸期から明治期を通じて300年間も使われた。 |