cleansui club (クリンスイ・クラブ)
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cleansui club 2006 秋号 vol.25
表紙へ
01 名水紀行 赤谷の森
02 水の匠たち 玉川上水
n03 水と上手におつきあい 水墨画をはじめよう
04 吉川ゆりのあれこれ健康コーナー 肝臓を守りましょう
05 会員体験レポート 親子でカヌーに挑戦!
06 温故知水 ご当地アイス
07 杉井明美の 「季節を探しに〈続・実践編〉」
08 お店訪問 09 世界の水〈第15回〉
10 Enjoy!アウトドア 11 和食料理の基本のコツ
水の匠たち
玉川上水
玉川兄弟
玉川庄右衛門・清右衛門
江戸市民の暮らしを守るため 新たな水流づくりに私財をなげうってまで 尽力した兄弟の物語
東京・羽村市。川沿いの公園に、ある兄弟の像が佇んでいます。暴れ川の異名を取った多摩川の水を、たった8ヶ月で江戸市民の給水源へと生まれ変わらせた兄と弟。江戸の地下に張りめぐらされた水道網は、当時の世界を見渡しても類例がほとんどありません。今も“玉川兄弟”の名で親しまれているふたりの物語を紹介しましょう。
羽村の兄弟が請け負った
江戸の新水源プロジェクトとは・・・
 江戸が天下の中心となり市街地が拡大するにつれ、江戸市内の人口は爆発的に増え始め、それまで頼ってきた神田上水の水だけではいずれまかないきれなくなることは目に見えていた。そこで徳川幕府は、神田上水とはまったく別系統の多摩川を水源とする水道の開削に乗り出した。これが後に300年間にわたって江戸市民の生活を潤すこととなる「玉川上水」であり、このプロジェクトを請け負ったとされるのが庄右衛門・清右衛門の兄弟であった。
現在の玉川上水は、始点である羽村取水堰(はむらしゅすいぜき)から小平監視所までの約12kmが上水路として利用されている。水路の両側には多くの木が植えられ、とくに取水堰そばの羽村堰下公園(はむらせきしたこうえん)は桜の名所として知られている。
上水記にある玉川上水絵図。上水記とは1788〜1791年にかけて普請奉行石の遠江守広通がまとめた江戸の上水に関する資料集成のこと。絵にある投渡堰や蛇籠といった水の流れを調節する装置は、今も同じ場所で役目を果たしている。
江戸を潤す上水図概略(羽村市郷土博物館展示)。最下部を流れるのが玉川上水、中央が神田上水、最上部には千川上水。
玉川上水の取入水門周辺。右側の写真は大水の際に撮影。多摩川の水をせきとめて上水路に引き入れる羽村取水堰(はむらしゅすいぜき)は、昔と同じ位置にある。
 兄弟が目をつけたのは、暴れ川の異名を持つ多摩川。しかも、その流域は勾配の少ない武蔵野台地で、工事が難航することは容易に想像できた。しかし、江戸まわりにある小さな川と違って十分な水量があること、流れが丘陵にぶつかり対岸に向かって水があつまることから、工事を決意。羽村から江戸までを測量して十分成算があると確信した兄弟は、幕府に掘削普請を申し出でて金6千両を工事料として賜り、いよいよ着工することとなる。
 計画は多摩郡羽村から多摩川の水を取り入れ、江戸市内の四谷大木戸までを開削するというもの。承応2年(1653年)4月4日に着工した工事は、同年の11月15日に完成。水は滞りなく流れ、工事開始よりわずか8ヶ月で玉川上水は誕生した。その長さは約43kmにも及んだという。こうして江戸市民の水不足は解決され、幕府を大いに満足させた兄弟は、“玉川”という名字を賜り、永年玉川上水元役を命じられた。さらに200石分の扶持と、帯刀をも許されたといわれている。
 兄弟の造った上水は、東京に近代的改良水道が建設され始める明治31年(1898年)12月まで、江戸期から明治期を通じて300年間も使われた。
上水工事成功の秘密は
“夜の測量”と“私財譲渡”
 玉川兄弟の出自については、江戸市内の町人、あるいは多摩川沿岸の住人と、諸説がある。「上方から江戸に移り住んだ父のもと、進んだ上方の土木技術を学んでいた」、「多摩川沿いの農民だったので武蔵野の地理に詳しかった」との資料があるが、それほど、彼らの土木技術は優れていた。
 羽村から四谷大木戸までの最大高低差はおよそ92m。平坦な武蔵野台地のわずかな勾配に水路を引く作業は、精緻な測量器械もなかった当時としてはかなり困難だった。そこで兄弟は、近いところは束ねた線香を、遠いところはちょうちんを持った人間に歩かせ、その光の上下で土地の高低を測ったという説が残っている。
“夜の測量”の様子をあらわした模型(羽村市郷土博物館展示)。工事予定地に線香や提灯を持った人々を並ばせ、土地の高低を測ったといわれている。
四谷大木戸から先の地域への配水に使われた桝(ます)と樋(とい)。地面に埋め込んだ樋に上水の水を流し、途中の枡や井戸から水をくみ上げて生活に使っていた。枡や樋には、木や石を使って、水がもれないよう船づくりの技術が用いられた。
羽村堰下公園にある玉川兄弟の像。立っているほうが兄の庄右衛門。視線の先には多摩川があり、水が流れる様子を見守っているかのよう。
 水が染みこみやすい武蔵野台地の地質が彼らを困らせ、工事は2度も失敗したという。また、幕府から下賜された工事費用は高井戸あたりまでで使い果たしてしまい、それより以東は兄弟が自らの私財をつぎ込んで工事を完成させたという逸話もある。
 「江戸に水を引く」という使命感と職人の意地を貫き、難工事をわずか一年足らずで完成させた玉川兄弟。庄右衛門は元禄8年(1695年)、清右衛門は翌年にこの世を去った。玉川上水の起点となる羽村取水堰を望む公園には、玉川兄弟の像が地元の有志らによって建てられている。立つ庄右衛門と、その側に寄り添うようにしゃがむ清右衛門。ふたりの眼差しは、いまも流々と流れ続ける多摩川を向いている。
玉川上水についての資料がいっぱい 羽村市郷土博物館
東京都羽村市羽741
TEL 042-558-2561
入館無料/月曜休館(祝日の場合は開館) 開館時間9:00〜18:00(10月から3月の間は〜17:00)
http://www.city.hamura.tokyo.jp/
museum/museum.html
JR青梅線羽村駅より徒歩20分。さまざまな形で多摩川の恵みを受けてきた羽村の、自然や歴史、文化、とくに玉川上水と中里介山に関する資料の収集・調査・公開をいっている。また敷地内には、江戸時代末期に建てられ、現在国の重要有形民俗文化財に指定されている旧下田家住宅がある。
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