若葉が萌える樹々に囲まれながらゆったりと流れる澄んだ川のほとりで、大きな水車が二つ並んでゆっくりと回っている。黒澤明監督が最終作の映画、『夢』のロケ地に選んだことで知られる風景だ。
水車小屋は、東京ドームが11個も入るほどの広大なわさび農場の一画にある。森に囲まれた、広い谷の中に拓かれたわさび田に近づくにつれ、「シャララララ、カシャララララ、」という軽やかな音が聞こえてくる。それは、幾人もの農夫たちが収穫後のわさび田の整地や掃除をしている音であった。小石が敷きつめられたわさび田を、「じょれん」という農具で平らにならしていく際に、はた織りのコマを送るような音が奏でられる。
大地から湧き出す清冽(せいれつ)な水が、わさび田の中をまんべんなく流れるためには、地面の形を鏡のように平らに整えなくてはならない。
「じょれんの音を聞くだけで、ベテランか新米かすぐわかるよ」
わさび田のほとりの作業小屋で、収穫したばかりのわさびの仕分け作業をしていた女性が語った。
わさび田の中で、疲れたように農具にもたれかかって休んでいる若い農夫に、トラクターなどの機械は使わないのかと尋ねてみた。
「機械が使えれば楽なんですけどね。油が漏れて流れたりするし、細やかな整地は手作業じゃなきゃできないんです」
地中から水が湧き出している場所と、そうでない場所では地面の堅さが異なり、わさびの育ち方も変わるという。その加減をみながらの繊細な作業なのだそうだ。
「大変は大変ですけどね、機械じゃ愛情は育てられませんから」
と言い、少し照れたように笑った。
安曇野の湧水は様々な恵みを暮らしの中にもたらしている。蕎麦屋が多いのは言うに及ばず、意外なほど多いのが手作りパンの工房だ。天然酵母で仕込んだこだわりのパンを生み出す工房が、街中や森の中のそこここで営まれている。
そのひとつ、安曇野駅の中心地の穂高駅前に近い『こっふぇる梅太郎』の店の扉を開くと、どっしりと濃密なパン生地の香りに包まれた。国産小麦の粉と天然酵母にこだわって焼き上げたという品々は、どれも充実した重厚な雰囲気を漂わせている。
「初めて国産小麦と天然酵母のパンを食べたときに感動して、こんなパンを自分も作りたい、と思ったのがきっかけですね。天然酵母にもいろいろあるので、酵母の種類によって仕上がりがまったく違ってくるのも魅力です」
と、店主の中山聡さんが語った。品揃えも、ベーグルやブット、クロワッサンなど、パン生地そのものの味を活かした品々が多い。
いくつかの種類のパンを分けてもらい、春の安曇野の景色を眺めながらひと口、もうひと口と噛みしめてみた。ゆっくりと噛むほどに豊かな香りと味が湧き出してくる。パンとは小麦の味を楽しむご馳走だったのだ、と改めて認識させられた。スーパーやコンビニエンスストアの棚のパンなどを食べていたら、人生の大きな損失なのである。